成長してみたら父はかなり優秀だった
生まれてこのかた、私は父より頭の良い人間に出会ったことがない。
もちろん、世の中にはノーベル賞受賞者や天才と呼ばれる研究者もいるし、もっともっと頭の良い人間がいるのだと知っている。
ただ、実際に出会った人間という限定をつけて話すならば、私にとっての一番優秀な人は父である。
親が頭の良い人間であるということは、良いことのように聞こえるかもしれない。
確かに、父が頭を使って稼いだお金で私はお金の心配をする事なく進学できているし、受験レベルの問題まで身近な人間に教えを乞うことができた。
父と会話することで身に付けた知識も多く、それらは何だかんだと役に立っていると言える。
しかしながら、親が優秀であることは良いことばかりではない。
まず前提として、ある程度周りから突出して優秀な人間というのは、周りの人間を無自覚に傷つけてしまうことがあると知っておいて欲しい。
彼らは自分がそれなりに頭の良い人間であるということを知っている。その上で、頭が良い故に大学に入ってからや社会に出てから「本物の天才」とも言うべき人物に出会っており、上には上がいるという考えを持っていることが多い。
本当に優秀な人たちは、一握りの天才を除いて、皆謙虚である。
自慢することなく当たり前のように問題を解き、当たり前のように頭を使って生きている。
子どもが皆そうであるように、私もある程度成長するまで自分の育った環境が全てであり、個人差のあるものだということを認識していなかった。
しかも、「父はどうやら飛び抜けて頭が良いらしい」ということに気付くまでに私はそこそこの時間を要した。周りの大人は学歴の話をしなかったし(多分子どもに余計なプレッシャーを与えたくなかったのだろう)、周りの友人の親がどういう人であるかなんて聞く機会もなかった。幼い子どもからしたら大人は全員自分より知識があるわけで、その大人の中でどれくらい優秀であるかなんて推測しようがないのだ。
気付き始めたのは高校生になってからで、それがどうやら特殊であるという実感を持ったのは最近のことである。
そういうわけで私は、かなり大きくなるまで大人は皆父のように賢いのだと思っていた。
父は賢く、善良な人であるので、私に向かって「こんなことも分からないのか」と威張ったり「出来の悪いやつだ」と罵ったりするような馬鹿なことはしない。
ただ、当たり前のように問題を解き、当たり前のように頭を使って生きている。
父の当たり前が当たり前にできないことに悩み、もっと頑張らなくては大人になれないと漠然と思っていた。
今でも、おそらく自分と同じレベルの人に比べて頭の良さを低く見積もっていると感じる。そうしたある種の劣等感は、少なからず私に影響を与えており、漠然とした自信のなさに繋がっている気がする。
そしてこの劣等感が、父には一生敵わないのだという呪縛に私を縛り付ける。
そんなはずはないのだけど、父に敵わなければ所詮その程度の人間なのだとどこか彼方にいる神様に嘲笑われているような、そんな感覚が私の中には存在している。
私がもし子どもを持つ時が来たら、子どもにも同じ経験をさせるのだろうか。
先日ふとそう思った。
自分の頭の良さは自分ではよく分からないが、学歴や偏差値と言ったありきたりなもので測るのならば私もまた一般よりも秀でた位置にいるのだろう(もちろん頭の良さは学力的なものだけでは測れないと考えているので、実際私が頭がいい人間なのかは定かではないが)。
親になってようやく自らの親の気持ちを理解するというのはよくある話だ。
父は何を思って私を育てていたのだろう。
聞いてみても「やっぱり父の考えていることは理解できなかった」と諦めと安堵を味わう気がしている。
直接聞くのはまだ少し怖いが、いつか来るその瞬間に思いを馳せている。